掌編小説ノート

3分で読める、お手軽ストーリー

個室で生かされるV.I.P.

 24時間を個室で一人きりで生活出来るなんて、いい話だと彼は思った。マガンという20代の男が世俗の空気の中にいた頃、彼は転落していく人生の中で、最後に許されない罪を犯した。そして紆余曲折を経て、今彼は自分だけの個室を与えられ、その場所で生活している。

 

 それは彼の人生が終わるまで続く話であった。生活の中で楽しみと言えるのは、まず食事である。間食は出来ないので、食事の時間は毎度空腹であった。メニューはそれなりに種類が豊富で、彼は食事が届くたびに、その献立を確認し一喜一憂していた。

 

 社会の為に何も貢献していない彼にとって、これだけでも楽しみがあるということは、贅沢なほどに恵まれていた。そして彼の楽しみはもう一つある。彼の部屋には何十冊も本が積まれてあった。彼はそれらを自由に選んで読めるのである。読書好きの彼にとっては、これもまた大きな楽しみであった。

 

 部屋には窓が無いので外は見えない。彼は自分がどんな地方にいるのかも知らなかった。実際のところ、彼は死ぬまでここにいるのだから、ここがどこであろうと関係はなかった。しかし彼は何度かそれについて尋ねたことがある。彼には一人だけ接触可能な人物がいた。

 

 それは彼の部屋を毎日掃除してくれる中年の女性だった。年齢はマガンの母親とたいして違わない様に見えた。この女性はたいして汚れてもいないのに、毎日床を丁寧にモップ掛けしてくれた。彼女はマガンとは一切口を利かなかった。マガンも通常は彼女に話しかけたりはしなかった。

 

 何でそんなことをしたのか自分でも分からなかったが、マガンは一度だけ彼女に襲い掛かったことがあった。音を立てずに忍び寄り、背後から彼女に抱きついたのだ。すると彼女は見事な身のこなしで、マガンを部屋の隅まで投げ飛ばした。それ以来マガンは、おかしな真似をしなくなった。

 

 人間が人と一切喋らずに自らの心のバランスを保つのは、意外に難しい。マガンは俗世間にいた頃から、その難しさをよく知っていた。マガンは掃除の女性に投げ飛ばされてから、彼女を疎むようになった。それでも掃除の女性は、毎日マガンの心のバランスを崩しにやって来た。

 

 マガンにはなぜ彼女が毎日来るのかが分からなかった。そして感情を表さずに黙々と掃除をする女性に、苛立ちを感じていた。彼女さえいなければ、マガンの世界はパーフェクトだった。しかし彼女はマガンの神経を逆なでるように、毎日部屋に入って来た。

 

 そんな生活が続くうちに、マガンにはもう一つのイライラが加わった。何のために存在するのか、マガンが不思議に感じていた部屋の壁に設置されたスピーカーから、時々大音量で国歌が流れるようになったのだ。この国歌はいつ流れるのか決まっておらず急に始まるので、マガンにとっては何とも癪の種であった。

 

 やがてマガンの生活にははっきりとした変化が訪れた。ある日いつもの様に部屋に入って来た掃除の女性が、マガンの部屋にあった本を一冊ずつ寄り分けて、三分の一ほどをマガンには無断で持ち去っていったのだ。女性が去った後調べてみると、持ち去られたのは皆外国の作家の本で、国内の作家の本は全部残っていた。

 

 次の変化は食事に現れた。以前と比べて明らかに食事の量が減ったのだ。それにメニューもあまり種類が無くなり、内容も手抜きが感じられた。食事の届けられる時間も著しく遅れる場合があり、本の事と言い、マガンは自分の生活から少しずつ楽しみが奪われていくことに、ストレスを感じていた。

 

 やがて例のスピーカーは、国歌だけでなく人の声も流すようになった。その声の主はマガンの父親であった。マガンの父親は、スピーカーを通して、今この国は戦時下にあり、国民の結束が敵を蹴散らす力になると、力強く訴えていた。マガンは久しぶりに聞いた父親の声に懐かしさを覚える自分を恥じた。

 

 ある日いつもの掃除の女性が、初めてマガンに話しかけた。彼女がここに来るのは、今日が最後になるという。マガンはこの女性に言いたかった、ただ一つのことを訴えた。それは以前マガンが彼女に働いた狼藉に関する、自分なりの自己分析の成果であった。

 

 「こんなこと言っても嘘だと思われるかもしれませんが、あれはあなたの為にやったことなのです。だって僕にとってたった一人の女性に対して、何の関心も示さなければ、僕はあなたに逆に失礼な態度を取ることになる。僕はあなたには女性としての魅力があるということを、知って欲しかっただけなのです」

 

すると女性はマガンに対して、「そう、あなた優しいのね。どうもありがとうね」と言って、初めてマガンに対して微笑みを見せ、やがて退室して行った。それが、マガンの見た最後の人間の姿となった。