掌編小説ノート

3分で読める、お手軽ストーリー

今ここにいることに意味など無い

 駅から出ると、そこには見知らぬ光景が広がっていた。それはありふれた風景ではあったが、日が沈みかけた夕暮れ時の、美しい町並みであった。トンボリという10代の少年は、この町が気に入った。初めて降りた駅の周辺に広がる町の賑わいに、トンボリはなぜか懐かしさを覚えた。

 

 幼い頃自分もこんな空気を肌で感じながら生きていた気がする。まだ世界が狭くて、そこを縦横に走り回っていた頃を思い出す。過去の思い出は美化されるというが、それでもトンボリにとって、それは掛け値なしの美しい日々であった。いったいどこの誰があの美しい世界を破壊してしまったのだろう。

 

 そんなの自分に決まってるじゃないかと、トンボリは思った。人間として避けようのない成長。繰り返されるたびにつまらなくなる誕生日会。広がりを見せる世界は、トンボリの期待を裏切った。無慈悲な時の流れは、まるで公害の様に彼の世界を汚していく。それが資本主義社会の基本原理だとでも言わんばかりに。

 

 この町には知っている人が誰もいない。ここはトンボリの生きる世界ではないのだ。ここにはここの生活がある。この町の住人にとって、この場所は当たり前の空間であろう。トンボリには、それが羨ましかった。自分もこんな町に住んでみたい。知らない町を歩く異邦人は、たまたま出会った町に、最大の賛辞を送った。

 

 トンボリがあてどもなくフラフラと歩いていると、一軒のケーキ屋が目に止まった。薄暗い景色の中で、その店は暖かみのある明るさを保っていた。トンボリがふと店の中を覗くと、店内には一人の男性と、10歳くらいの女の子がいた。両者が店のカウンターの中にいることから、あの二人は店主とその娘なのだろうとトンボリは想像した。

 

 ケーキ屋の女の子。それはトンボリに、ある郷愁の様なものを感じさせた。トンボリが昔好きだった女の子も、家はケーキ屋だった。今頃あの子はどうしていることだろう。あの当時から今に至るまで、ずっと同い年の女の子。しかしトンボリと彼女の人生は、全く交差することもなく、右と左に分かれて行った。

 

 この知らない町のケーキ屋の女の子は、一体どんな人生を送るのだろう。トンボリにとって、この少女は羨望される側にいて、彼は羨望する側にいた。あの少女はトンボリに夢を与えるが、トンボリは彼女に何も与えられない。トンボリにとって、彼とケーキ屋の女の子のどちらにより高い存在価値があるのかは明白だった。

 

 たとえ彼女が若くしてお母さんを病気で亡くしたとしても、トンボリは彼女には勝てない。たとえ彼女が若くして病魔に侵されても、トンボリは彼女には勝てない。そして彼女の儚い命が、若くして散ったとしても…。トンボリは彼独自の、何の根拠もない歪んだ価値観に照らして、勝手に自らの敗北を認めた。

 

 それは弁解無用の大敗北であった。この戦いの勝者は、世の中にたくさんいる。敗残兵は消え去るのみ。トンボリは道路を隔てた歩道からじっとケーキ屋を覗き込む、自身の異様さにようやく気付き、後ろ髪を引かれる思いで、また歩き出した。そして数分歩くと町は突然賑わいを失い、人気のないバス停がそこにはあった。

 

 トンボリはこのバス停でバスが来るのを待った。彼はバスを待つ間、不思議な胸の高鳴りを感じていた。日常にはないこの感覚。この感覚こそがトンボリをここまで来させていた。そしてバスに乗れば、このドキドキはクライマックスを迎える。一瞬先ほどのケーキ屋の少女の姿が脳裏をよぎった。なんて汚い大人なんだ!

 

 バスの中には、自分を含めて客が3人しかいなかった。トンボリは他の客から一番遠い席を選び、ただひたすら窓外の景色を眺めた。民家やアパート、そしてときどき場違いな犬猫病院やビデオショップが目に入る。ここにもあそこにも、それぞれの人生がある。しかしそこには羨望の眼差しは向けなかった。

 

 ついにバスの乗客は自分一人。外の景色はいよいよ寂しくなり、夜の闇も手伝って、そこは地の果ての様な絶望感を醸し出していた。「お客さん、終点ですよ」バスの運転手は、運転席からこちらを見ずにそう宣告した。ここで終わり…?一瞬バスを降りずに、また折り返して町に戻る選択肢が頭に浮かんだが、そんなことをする勇気は彼には無かった。

 

 なんだここは?そこはまるで埋め立て地の様な、独特の寂しさを感じさせる場所であった。バスが行ってしまうと、辺りはより暗くなった。トンボリは懸命にバス停の時刻表を見た。今日ここから出るバスは、まだ3本ある。帰りの心配か?なら何でこんな所にやって来た?トンボリは我が身が惨めに思えてしょうがなかった。

 

 どうせ帰るんだ。それは初めから分かっていたことだった。トンボリはバス停のベンチに腰を下ろした。誰かを心配させたい訳じゃない。同情を買うための芝居でもない。トンボリは自分を襲ってくる情け容赦ない追及に対し、一つ一つを否定し続けた。今の彼には一つ心配がある。帰りのバスの運転手が、さっきのバスと同じ人だったらどうしよう?運転手の意地の悪い嘲笑が目に浮かぶようだ。あの胸の高鳴りが、また始まった…。