掌編小説ノート

3分で読める、お手軽ストーリー

歴史はこうして作られた

 時速350キロを超える夢の超特急の完成は、カンタン国の悲願だった。カンタン国はこの超特急の開発のために、隣国サーク国からモンボ氏という技術者を招き、そのサーク国の技術を大幅に取り入れて、超特急の開発を進めた。
 
 隣国サーク国の技術者モンボ氏は、秘密裏にカンタン国に招かれた。サーク国の技術をカンタン国に持ち込むということは、モンボ氏の売国行為であった。モンボ氏は、カンタン国の用意した莫大なギャラに目がくらみ、サーク国の秘密事項を、カンタン国に売ってしまったのだ。
 
 モンボ氏は、超特急開発プロジェクトの秘密兵器で、彼の持つ知識無くしては、プロジェクトの成功はなかった。モンボ氏の通訳を任されたカムラ氏は、このプロジェクトの最前線で働くモンボ氏を間近に見ていて、その功績を証しできる数少ない証人であった。
 
 カムラ氏は、このチームの一員であることを誇りに思っていた。このプロジェクトを語る上で、チームリーダーのモンボ氏の存在は絶対に外せないもののはずだった。しかし、大功労者であるモンボ氏は、絶対に表には出て来られない人間で、公式の記録上、このプロジェクトの中にモンボ氏は存在しなかった。
 
 プロジェクトが完成し、カンタン国に超特急が生まれたことに、国民は大いに喜んだ。そして、このプロジェクトを後世に伝えるための映画が公開された。
 
 しかし当然のことながら、その映画にはモンボ氏は出てこなかった。夢の超特急は、カンタン国の精鋭が、カンタン国の力だけで、カンタン国の為に作られた列車として描かれた。
 
 モンボ氏の功績を知るカムラ氏は、この改変されたカンタン国の歴史に、どうにも納得がいかなかった。モンボ氏と共に汗を流した仲間たちが、平気でモンボ氏の存在を黙殺しているという事実に、憤りを覚えたのだ。
 
 カンタン国では世を挙げて、夢の超特急を祝い、映画も大ヒットとなった。馬鹿みたいに騒いでいる国民は、誰も真実を知らなかった。
 
 カムラ氏は、一念発起して夢の超特急の小説を書いた。小説と言ってもそれは、超特急プロジェクトの真実を描いたものだった。
 
 この小説は、いわゆる便乗本の類として、世の中で面白おかしく取り上げられた。しかし、それは良く出来たフィクションだと思われ、人々は話のタネに読む程度だった。
 
 やがて、ひとかどの名声を得たカムラ氏は、その小説は事実であるという、言ってはいけない真実を方々で語りだした。彼は危険を顧みず、本当の歴史を語ったのだ。
 
 しかし世の中は彼を変人扱いするだけで、誰も彼の話を真に受けることはなかった。カムラ氏の挑んだ戦いは、不毛なまま終わりを告げようとしていた。
 
 ところが事態は一変した。夢の超特急が、世紀の大脱線事故を起こしたのだ。数十名の死者を出したこの大惨事があり、そこで注目を集めたのが、カムラ氏の小説だった。
 
 国民の夢が悲惨な現実に変わり、人々はこの惨事の原因が隣国の売国奴のせいだと噂するようになった。今やカムラ氏の小説は真実としてまかり通った。
 
 それは幻想の酔いから冷めた人々にとっての都合のいい真実だった。勝者のいない戦いは、カムラ氏に莫大な印税収入をもたらして、幕を閉じた。

青い稲妻に打たれて

 バータイム小学校の中で、フォッシュという少年は完璧というイメージがあった。彼の学校の成績は、すべて良かった。彼は学校の人気者で、先生にも好かれていた。しかし彼は優等生であるがゆえに、息苦しさも感じていた。まだ子どもではあったが、自由を求めていた。そしてそんな自分をもっと表に出したかった。
 
 フォッシュは両親に連れられて行った市の絵画コンテストで、ある一枚の絵と出会った。「青い稲妻」と題されたその絵は、そのコンテストの注目作品とは呼べず、実際に興味を持つ人も少なかった。
 
 その絵は一見すると幼稚な印象で、あまり芸術性は高くなく、悪く言えば奇をてらったような、風変りではあるものの、そこに高い価値を見出す人は少なかろう印象の、どうにも困った絵であった。
 
 しかし、フォッシュの評価は違った。他の絵の前を素通りしていた彼の足は、なぜかその絵の前で立ち止まり、そこから動こうとはしなかった。彼の目には、この絵には他の絵にはない、作者の主張があった。それは彼が日頃から求めている、自由な生き方の表明であった。
 
 この絵には評価されることへの欲求が、微塵も感じられなかった。ただ描きたいものを描いている、それだけな感じがした。それ故に、この画家の要求は受け入れられ、この絵は絵画としての高い評価は得られていない様に、フォッシュには思えた。
 
 実際にこの絵の作者がどう思っているのかは不明だが、フォッシュにはこの画家の他人の評価を無視した様な生き方が、とても格好良く映った。そこで彼は子どもらしく真似てみることにした。
 
 フォッシュは優等生なので、絵を描くのも上手かった。彼自身それを自覚していたが、それでもフォッシュはあえて自分の描き方を捨てて、すべてを「青い稲妻」風に表現することにした。しかし、それを高く評価する人はいなかった。はっきり言って、彼の絵は下手になっただけだった。
 
 学校の先生は、このフォッシュの新しい試みを露骨に嫌った。しかしフォッシュは正当な評価を得られるまで戦う覚悟だった。両親に注意されても、彼はそれを止めなかった。そして実際彼の美術の成績は下がってしまった。
 
 またフォッシュは絵画以外にも、自己表現が可能なあらゆる課題において、「青い稲妻」風を試みた。彼の書く作文はいつも先生の評価が高かったが、それも変わってしまった。彼は耳障りの良い表現を捨て、本当に思っていることを書いた。その結果生まれたものは、ただの乱暴な作文であった。
 
 フォッシュは自分が「青い稲妻」に打たれたことを誰にも告げていなかったので、周りの大人たちは彼の突然の変化に当惑するばかりであった。彼らはフォッシュに元のやり方に戻すことを求めたが、彼は頑として譲らず、出来の悪い作品を量産し続けた。
 
 あの「青い稲妻」の絵は、本当にただの下手な作品に過ぎなかったのかも知れない。「青い稲妻」にあって他の出品作には無かった要素とは、コンテストで評価される為に最低限持っておくべき知識の欠如であり、その世界の常識の無さであった。
 
 しかしそんな作品が何段階かの審査を通過して、コンテストの展示会に張り出されたということは、あの「青い稲妻」には審査員に訴える何かがあったということだろう。「青い稲妻」を描いた画家は、絵画の基本的な技術を習得した上で、あえてそれを全部捨て、あの様な絵を描いたということも考えられる。
 
 フォッシュが共鳴したのは恐らくその辺りを感じ取ったからであり、今の彼の態度は大人に対する反抗などではなく、彼が人間として成長するための壁にぶつかったが故のもがきであった。フォッシュは大人に評価されるためのテクニックをすべて習得し、その上で今それを捨てようとしているのだ。
 
 フォッシュは向上心の強い子どもで、それが今までの彼の栄光を支えてきた。ここからの道はますますその向上心が求められ、その結果彼の評価は下がってしまうので辛いだろう。しかしその回り道は学ぶことの多い道であり、そこには弱者の痛みに鈍感なエリートが通らないで済ましてしまう挫折が待っている。それは彼にとって、危うくも有益な青春時代の道なのである。

潜伏と逃亡の人生

 ある寒い夜、暖房もない真っ暗な家の中で、男は缶詰を開けて、それを夕食の代わりとした。男は人目を避けて電気も付けずに、暗闇の中一人寂しい夕食の時を持った。
 
 そもそも、この家は電気が付かなかった。この家は、本来住む者のいない家だった。この家の主は数年前に他界していた。しかし、この家に潜む孤独な男は、それを知らなかった。
 
 彼はこの家の主とは面識がなかった。そして、この町に住む誰とも交流がなかった。この町に住む人は誰も彼のことを知らなかった。彼はこの家に潜伏する身であった。
 
 別に何か犯罪を犯したという訳ではなかったが、それでも彼は逃亡者であった。彼は一つ所に留まらず、町から町へと移り、ちょうどいい空き家を見つけて、そこに隠れ住むことを常としていた。
 
 そのような生活では、食べ物を見つけることも至難の業であったが、幸いこの家には、缶詰や保存食がたくさん残されていた。彼はそれをなるべく長く持たせるために、少しずつ食べていった。
 
 彼はあまりお腹が空かないのだ。だからこのような節約は、彼にとってはそれほどの苦ではなかった。彼は計画を立てるのが好きだった。そして、その計画を守るのは、もっと好きだった。
 
 彼は自身の潜伏生活に、一定の秩序が保たれていることをとても気に入っていた。こんな惨めな生活でも、それは彼の人生であった。彼の家族は、彼のことを死んだものと思っていたが、彼は生きていた。そして不法侵入という罪を犯してはいるものの、彼は正しく生きているつもりだった。
 
 しかし、それは彼がそう思っているだけで、本当は正しくなかった。彼は社会に助けを求めることも出来た。住む家のない者に、一晩のねぐらと温かいスープをただでくれるような場所もあり、そこに行けば彼はもっと人間らしい扱いを受けて、より尊厳を保つことも出来た。
 
 しかし彼はむしろその尊厳の為に、そのような助けを拒んできた。彼はそういった救いの手を差し伸べる活動家たちを軽蔑していた。そのような活動をする人たちには野心があった。それは将来政治家を目指すような人たちが、自分たちの履歴書に花を添えるために、落ちぶれた人たちを利用しているだけなのだ。
 
 世の人々はそれを知りながらも、彼らの活動を賞賛する。なぜなら、結果的にそれで助かる人が多く存在するからだ。
 
 しかしそれは世の人々が、落ちぶれた人たちのことを、彼らも心を持つ人間だということを忘れているからだろう。その慈善事業にいくらつぎ込もうが、政治家が落伍者を踏み台にして出世するなどということは、あってはならないことだ。
 
 空き家を転々とする男は、そのような偽善が跋扈する世の中で、無力な抵抗を続けていた。彼にはそんな偽善は受け入れられなかったし、その偽善を批判することもなく、見て見ぬふりの鈍感な社会の有り様は、なお受け入れ難かった。
 
 彼にとってこの世は偽善に対して寛容すぎた。空き家を転々とする男は正しく生きた。例え法律に違反しても、偽善という巧妙な背徳行為を罪にも定めない様な法律など、守る価値はないと信じていた。世の人々も、彼のような存在に価値を認めないので、お相子というところだろうか。

落日のスポークスマン

 ある小国のスポークスマンのコージ氏は、近ごろテレビで見ない日がないほど、連日活躍していた。それは、この国の首相を始め内閣の面々が、どうしようもないくらい次から次へと問題を起こすためだった。
 
 コージ氏の悩みは、決して本当のことが言えないことにあった。この国の内閣の面々が起こすスキャンダルは、その真相を知るコージ氏にとって、墓場まで持っていくしかないような、決して明かす事の出来ない、衝撃的な事実ばかりであった。
 
 真面目で妻子ある身のコージ氏にとって、内閣を守ることは、彼の家族を守ることでもあり、彼はその為なら、どんな詭弁を弄うしてでも、自身のスポークスマンの任期が終わるまで、逃げ続けるしかなかった。
 
 彼とその家族の安全は、国によって保障されており、長きに渡って与党であり続ける人民党政権が倒れない限り、将来も安泰であった。
 
 しかしコージ氏は安心できなかった。周囲の国々では長期政権を保ってきた政権与党が次々と倒れ、長年に渡る恩恵を徐々に失いつつあった。コージ氏に今保障されている国の優遇措置も、政権が倒れたら終わりなのだ。
 
 そうなったら、彼は家族を連れて国外に逃げるしかなくなる。そして、それは日々現実味を増していった。一党独裁に近かった人民党の支持率は徐々に下がり、野党第一党民衆党に追いつかれつつあるのだ。
 
 嘘と誤魔化しの会見を開き続ける政権与党への風当たりは厳しく、本来真面目な公務員であるコージ氏も、今ではすっかりお茶の間の悪役と化し、彼は内閣の面々と同じくらい、国民から嫌われていた。
 
 そして「すべてを知る男」コージ氏には、毎日の様に誘惑が迫って来ていた。それは華麗なる転身への誘いだった。今やコージ氏の気持ちひとつで、彼は作家にもなれるのだった。
 
 しかし、彼にとってそれはあまり気持ちのいいものではなかった。作家としてのコージ氏に求められるのは、現政権への裏切りだった。彼は内閣の閣僚たちの持つ様々の秘密を明かすことによって、簡単にベストセラー作家になれるのだ。
 
 その本の印税だけで豪邸が建つようなことを言われて、彼の心は揺れた。それはお金だけのことではなく、もう嘘をつかなくてもいいという、今の彼が最も欲している、心の安らぎも付いてくる話なのだ。
 
 実を言うと、彼は作家になる事を承諾はしていないものの、そのベストセラー本の元になりそうな文書はすでに書いてあった。自分でもいったい何のつもりか分からなかったが、彼は内閣の赤裸々な事実をすでに綴ってあったのだ。
 
 そんな文書の存在が知れたら、自分は抹殺されるかもしれない。作家になどなってみたところで、彼には安全な生活など絶対にあり得なかった。この秘密文書が今後どうなるか分からないが、彼にとってこれは遺書のようなものでもあり、家族へ渡す生命保険金の様なものでもあった。
 
 この文書が本になったころ、もう自分はこの世にはいないかもしれない。しかし世紀のベストセラー本の印税が、彼の家族を養ってくれるかもしれない。そして死んだ後とはいえ、彼は真実を語る機会を得ることになる。
 
 今や彼の存在そのものがスキャンダルの種であった。コージ氏が頻繁にニュースに出ているという事実が、現政権の末期状態を如実に表し、それは皮肉なほど正直に、彼らの終わりを告げているのだった。

苦労するサンタと赤鼻のトナカイ

 人気女優ファービラ・サンドリッチの一人息子パパタは、欲しいものを求めていた。それは、何か欲しいものがあるけれど、手に入らないという意味ではなく、欲しいものが見つからないという意味であった。
 
 母親の成功によって、パパタは欲しいものが全て手に入るという、いい身分にあった。パパタは極度な人嫌いで、誰とも付き合いがなかった。そして、その状況も彼が求めて手に入れたものの一つだった。
 
 誰にも会わない生活が、彼にとっては必要だった。しかし、それは本来人間のあるべき姿ではなかった。彼も心の奥では、人との関わりを求めていた。そして、その欲求の穴埋めとして、彼は浪費を重ねるのであった。簡単に言えば、心の寂しさをもので埋めていたのだ。
 
 全てを手に入れ(しかし、それはくだらないものばかりであったが)、欲しいものに囲まれて、彼はひととき幸福感を得るのだが、気が付くと、彼はまた飢えていた。そして、その飢えを満たすために、また買い物をするのだ。
 
 そうしていくうちに、彼にとっては、欲しいものを見つけることが、困難になってきた。彼の興味のあるもので、彼がまだ持っていないものは、もうあまり無かった。仮にあったとしても、それは彼がすでに入手したものの類似品で、そういったものには、もう彼はときめかないのだ。
 
 そんな時、彼はあるニュースに興味を持った。そのニュースの主人公を、世間の人は「苦労するサンタ」と呼んでいた。この「苦労するサンタ」という名前は、その「苦労するサンタ」本人が名乗っているもので、「サンタクロース」をもじった名前の様であった。
 
 「苦労するサンタ」という人は、その性別すら不明だが、サンタクロースのように子供たちにプレゼントを与える人物で、特に不幸な境遇にある子どもたちに、正体を伏せてプレゼントを送っていた。そして、そのプレゼントには、必ずカードが付いていて、そこに「苦労するサンタより」といつも書かれていた。
 
 パパタはこのニュースを見て、自分も真似したくなった。喜びのない生活にある彼にとって、この様な行為は、大変な魅力があった。恵まれない子どもたちにプレゼントを与える謎の男。しかしてその正体は、女優ファービラ・サンドリッチの息子だった。彼の中で、このストーリーは、とても格好良かった。
 
 彼はさっそく実行に移した。彼は自らを「ルドルフ」と名乗り、先輩の「苦労するサンタ」と同じく、子どもたちにプレゼントを贈る活動に勤しんだ。金に困らない彼にとって、この「ルドルフ」としての活動には、限界が無かった。
 
 彼は「得る」ことの喜びには限界があっても、「与える」ことの喜びには、限界が無いことを知った。「ルドルフ」の行為に賞賛を与えていた世間の人たちは、やがてそのニュースに飽きて、彼のことを忘れていったが、その事実は、パパタにとっては活動の障害にはならず、むしろ喜びだった。
 
 これで、彼は何も得ずして人に与えることが、出来るようになったからだ。こうして彼は、久しぶりに満たされた生活を手に入れたのであった。

絵の中で生きる二人の少女

 ケララという女の子には、七十歳のおばあちゃんがいた。おばあちゃんはいつも絵を描いていた。
 
 おばあちゃんが絵を描くようになったのは六十歳を過ぎてからで、ケララはおばあちゃんの絵が好きだった。おばあちゃんの絵の中には、いつも一人の女の子が描かれていて、その女の子はケララだった。おばあちゃんの絵の中で、ケララは高い木の上に登り、草原を駈け、自然と戯れた。
 
 おばあちゃんにはお気に入りの画家がいた。それは、かつておばあちゃんが通っていた絵画教室で一緒に学んでいた、ロコという三十代の、専業主婦の女性だった。
 
 ロコはただの素人の画家だったが、おばあちゃんはロコの絵が好きで、彼女の絵にもおばあちゃんと同じく、常に一人の女の子が描かれていた。
 
 それは、幼くしてこの世を去ったロコの娘だった。おばあちゃんはその話を聞いていたく感銘を受け、ロコの真似をして、自分の絵の中にケララを描くようになった。
 
 ケララもロコのことが好きで、よく彼女の家に遊びに行った。今のロコには子供がいなかったので、ロコはケララのことを可愛がった。
 
 ケララにはロコの娘を失った悲しさがよくわかった。ロコはケララにはあまり娘の話をしなかったが、おばあちゃんにはよく話していて、ケララはおばあちゃんを通じて、ロコの心情を理解していた。
 
 おばあちゃんとケララは、ロコが再び子供を授かることを願っていた。しかし、ロコはそう思っていなかった。そしてロコの夫はそんなロコの気持ちを察していた。
 
 しかし、ロコがケララを可愛がる様を見れば、本当はロコも子供を欲しがっていることは、誰の目にも明らかだった。ロコは自分の娘が生前書いた詩を大事にしていて、よくケララやおばあちゃんに見せてくれた。
 
 その中にはこんな詩があった。
 
 「クリスマスが来るとみんな喜ぶ クリスマスはみんなを幸せにする クリスマスは一年に一度来る なんで一年に一度なんだろう 喜びと幸せは、いつ来てもいいのに きっと、みんなそう思っている ただ口に出せないだけなのだ そして、みんなクリスマスを待っている 喜びも幸せも、一度だけのこと でも、私たちは来年もクリスマスが来ることを知っている だから、信じて生きるしかないのだ」
 
 ロコの娘は、この詩の中で、最後に生きることを訴えた。最愛の娘を失った悲しみを背負った母親と、歳を重ね、老いを実感し、やがて来る「死」を身近に感じるようになった老齢の女性には、すでに世を去った少女の残した「生きる」という言葉が、書いた本人以上に、強く意識させられるものであり、それを書いた少女が、すでに故人であることが、更に強く迫ってくるのだった。
 
 ロコとおばあちゃんの絵の中で、女の子が二人、それぞれの世界で生きている。この二人の少女は死ぬことはない。それは二人の画家の願いであり、彼女たちの人生を彩るモチーフでもあるのだ。

幸運を呼ぶタヌキ

 新しく軽食屋を始めようとしていた、プージャとその妻ルンダは、蚤の市を訪れ、何か店のシンボルになるものを探していた。
 
 するとそこに、高さが2メートルもある、陶器でできたタヌキの置物を発見した。「なんか、あなたに似ているじゃない」と言って、ルンダはそのタヌキの置物を店の前に置くべきだと言った。
 
 しかし、プージャは反対だった。それは妻の「似ている」という発言が面白くなかったからだ。しかし、結局は妻の熱意に負けて、プージャはタヌキの置物を買って、店のシンボルとした。
 
 そして軽食屋「プージャの店」は、すぐに繁盛するようになった。あのタヌキは、幸運を呼ぶタヌキだったのかも知れない。蚤の市でタヌキを売った人は、「あれは私の祖父が営んでいた料理屋の前にあったもので、祖父はあのタヌキが客を呼ぶんだと、よく言っていた」と話していた。
 
 プージャはそんなことは信じていなかった。だから、あのタヌキはそのうちに、店の前から撤去するつもりだった。
 
 しかし、ルンダ曰く「タヌキちゃんのおかげで」店は儲かっていた。やがてプージャの店は、新聞にまで取り上げられた。しかしそこで注目されたのは、やはりタヌキだった。
 
 今やあのタヌキは、店の目印として無くてはならないものとなった。店はみんなから「タヌキの店」と呼ばれていた。プージャはそれが面白くなかった。
 
 そしてなお腹が立つことに、みんなはプージャのことを「タヌキおやじ」と呼ぶのだった。彼は気の毒なほどに、置物のタヌキに似ていたのだ。
 
 そこで血迷ったプージャは、ルンダには内緒で新しい店のシンボルを勝手に作らせた。それはプージャ自らの姿を模した、電気で動く人形だった。
 
 無断でこんなことをされて、ルンダはショックを受けた。しかし蚤の市の時とは逆で、今度はルンダがプージャの熱意にほだされて、結局タヌキの代わりに新しい人形を置くこととなった。
 
 そして、新しいシンボルの効果はてきめんだった。しかしその効果は、必ずしもプージャの思惑に添うものではなかった。
 
 彼はこれで町の人たちも、自分の店のことを「タヌキの店」ではなく、正式名称の「プージャの店」と呼んでくれるだろうと期待していた。しかし、プージャの作った新しい店のシンボルも、人が見ればタヌキの様だった。
 
 タヌキに似たプージャの姿を模した人形を作っても、やはりイメージはタヌキなのだ。従って「タヌキの店」の愛称は消えることがなく、電気で動く新しい「タヌキおやじ」の人形は、「タヌキの店」の新しいシンボルとして受け入れられてしまったのだ。
 
 プージャの落ち込み様は、ひどかった。しかしそれに反して、町の人のプージャへの評価は高まった。みんなは誤解を元に、プージャの経営戦略に敬意さえ示すのであった。
 
 事ここに及んで開き直ったプージャは、妻の勧めもあって店の名前を「タヌキおやじの店」と改めた。そして蚤の市で買った「初代タヌキ像」を再び店頭に置き、それは「タヌキおやじの人形」と共に、人々に愛嬌を振りまくマスコットとして活躍した。
 
 プージャに与えられたタヌキおやじというあだ名は、蔑みではなく親しみから来るものであった。プージャにそれを気付かせてくれたことが、幸運を呼ぶタヌキのご利益であり、それこそが人が享受し得る「幸せ」の本質ではないだろうか。